普明会


沿革

鹿島俊郎は、戸次貞雄の説いた祖先礼拝の道[日本天皇道]こそ、完成された教えであり、それは求めていた真の大乗妙法蓮華経で、あらゆる宗教宗派を統括完成する、すなわち万法を帰一させる道であることを知覚し、師事することを決意した。

そして師の指導のもと当教団を設立、初代会長となる。

二代会長鹿島愛子も、戸次貞雄に師事し、その指導に基づき活動、戸次貞雄恩師逝去後、教団の発展に伴い富士山麓に万霊を祀る社「万霊殿」を建立し、ここを本部とする。

現在は三代会長のもと、この「万霊殿」を中心に各地に支部、支所を設け活動する。

本部と富士

万霊殿と富士

少し詳しく

普明会教団は、霊友会の職員だった鹿島俊郎が、戸次貞雄を教祖として設立した団体である。鹿島が教団設立に至った背景には、教祖戸次の半生と、そこに霊友会の創始者とされる久保角太郎とどう関わっていたかが、少なからぬ影響を及ぼしている。

戸次は大正十四年三月、久保角太郎と中山法華経寺系の霊能者・若月チセと知り合った。そして、久保から、西田利蔵(無学とも称した)の仏所護念法(=先祖の供養法)を知った。久保は西田の予言した教菩薩法(=菩薩行法)の説導者が戸次であると確信した。また戸次は、若月の霊感によって「前身が仏である」など、数多くの神託を受けた。

戸次は、教菩薩法の覚得を目指して罪障消滅に心血を注ぎ、ついにその一片(=初期の教菩薩法)を覚得。八月一日、戸次はその成果として、『仏の大慈大悲と運命』という著作を完成させた。一方、戸次と戸次の妻オワリの指導のもとで、「菩薩請願」「霊感感銘」の修行を行っていた久保も、戸次の著作完成と同じ日、仏界から「虚空蔵菩薩」としての使命を授かった。

当時は、若月チセの法座(=教えを受ける集まり)の後援会というかたちで久保を中心に会合が開かれていたが、このときを境に会は新たな体制になった。久保は、戸次が覚得して説いた教菩薩法と、それによって不備が補われた仏所護念の教えを整理し、人々に広めるという役割を務めるとともに、のちに戸次によって説かれるであろう完成された教えの一部を前触れとして唱える"前衛司令官"として正式に立ち上がった。こうして、その集いは、久保によって正式に「霊友会」と命名され、戸次の奉勅教(=戸次の説く教え)にもとづいた会として新たな活動が開始されることになった。


大正十五年、戸次は、妻オワリに下った神示により福島に移転。しかし、戸次と久保の関係はその後も続いた。昭和三年、二人は著者普明堂主(戸次のこと)、分別広説・流布者久保として、「奉勅教霊友会」の名義で『仏の大慈大悲と運命』、『昭和の法華経と常不軽菩薩』を発行。翌年には、同じく奉勅教霊友会名義で『仏は滅し給わず』を発行した。同著には「妙皇国建設運動の一環、艮の金神即普明堂主謹白」と記載されているが、これは戸次の説く教菩薩法が神道色を強くした結果によるものである(久保は分別広説者虚空蔵として記載)。

昭和四年、オワリに下った神示によって、東京では久保が霊友会として、福島では梅津文彌が明法会(のちの日本敬神崇祖自修団)として、それぞれが法を広めるという体制が敷かれることになった。戸次は教菩薩法と仏所護念の教えを完成するため、さらに修行を重ねていった。昭和5年三月、戸次は『皇礼典法華妙皇道実証経』という神道色の濃い教典を発行した。これは、戸次の覚得した教菩薩法が中期の段階に入った成果として出版されたものと推察される。

同著出版直前の2月、福島で活動していた 明法会の初代会長梅津が死去した。戸次は、修行を継続させるために会の運営に携わることができず、明法会の会長に久保を推して会の統一を図ろうとした。しかし、久保は独自の道を歩むことを選択。戸次から離れ、久保と彼の兄嫁小谷喜美が率いる霊友会を新たに発足させることになったのである。


それから約10年後の昭和14年。のちに普明会教団の創始者となる鹿島俊郎は、十四才で霊友会に入会し、宮本ミツ(のちに妙智會教団を設立)率いる第七支部に所属。その後、二万人もの人々を導き入れ、彼らを指導する「親」になった。昭和二十二年、旧制高校を卒業した鹿島は、小谷会長から霊友会本部職員に抜擢され、のちに霊友会二代目会長となる久保継成の家庭教師を務めながら、会報の作成や研修、指導にあたるようになった。述懐によると、鹿島は小谷に絶対の信頼を寄せ、小谷も彼を信頼し、我が子のように接していたという。

しかし、鹿島は次第に、霊友会の教義に対して疑念を抱き、小谷から受けた恩とのはざまで葛藤するようになった。そんなとき、会報の編集に携わるなら読んでおいたほうがいいと先輩職員から勧められたのが、戸次の「昭和の法華経と常不経菩薩」だった。それを読んだ鹿島は魂が打ち震えるほど感動し、著者の普明堂主とはいったい誰なのか幹部に尋ねたという。

鹿島の述懐によると、霊友会では、当時、戸次に触れることがタブー視されていた。そうした状況の中で、鹿島は次のような話を聞いたという。「真の霊友会の創立者ではあるが、普明堂主のことは秘密で口にしてはならない。戸次を気違い坊主として扱うことになっている」「久保角太郎が、霊友会の信仰を戸次先生にお返ししなければならない、戸次先生にお会いしたいと何度も言われて亡くなった」。この話は、霊友会幹部のあいだで公然の秘密だったとされる。

ちょうどそのころ、霊友会では金の隠匿をはじめとするさまざまな問題が起こっていた(当時、連合国軍最高司令官総司令部の政策によって金の所持が禁じられていた)。心を痛めた鹿島は、これも霊友会の説く法華経が行き詰まった結果だと考えた。そして、戸次に再び従い、事件収束に向けて善処するよう小谷を再三説得したものの、まったく取り合ってもらえなかったという。鹿島は、小谷から個人的に受けた大きな恩と、霊友会の腐敗した行為を放置していいのかという社会的責任との板挟みになって悩み苦しんだ。そしてついに、戸次の教えにつくことを決意し、自らの責任を果たすため、金の隠匿を関係機関に告発するとともに霊友会を脱会した。

この鹿島の告発が発端となって昭和24年金魂隠匿が事件として表面化し、その後、いわゆる霊友会の「第二次分裂」として数多くの団体が独立していくことになった。


鹿島は、戸次の説いた祖先礼拝の道(「日本天皇道」)こそ完成された教えであり、求めていた真の法華経であって、あらゆる宗教宗派を統括し万法を帰一させる道であると考え、戸次に師事した。そして、戸次の指導のもと、昭和二十四年十一月に「普明会」を設立し、会長に就任。昭和二十七年十月、「普明会教団」と改称した。現在は、鹿島孝夫が三代会長として教団を率いている。 (現代にっぽん新宗教百科掲載文章一部訂正)

※戸次貞雄ご恩師は、久保角太郎氏に昭和18年、同氏の寿命を予告し、再び自身に従うようにとのご意向を、ご恩師の弟子である沢井寅次郎氏を通じて伝えられました。(戸次貞雄と霊友会P25参照)そのため久保氏は深く反省されたのでしょう。亡くなる直前まで「戸次先生に霊友会をお返ししなければならない」と何度も言われて亡くなられたのです。(鹿島俊郎普明会の設立P23参照)その言葉を伝え聞いて、戸次貞雄ご恩師の下に馳せ参じたのが、当普明会教団です。