教祖 戸次貞雄[1897~1965]

私の体と万象の支え ①

戸次貞雄 説法録【音声付】(昭和37年1月31日)


下記の戸次貞雄の法話をお聞きください。

【 昭和37年1月31日祖神2年祭 ご恩師法話 普明会本部にて① 】

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…でありますから、これは法華経上に現れたるお釈迦様の、今日の世相を予言された、はっきりとした鏡であります。が、それを救うには、「東方の浄妙国土」の、その雑華経の中から取りいでたるところの、懴悔滅罪という以外にはない! ということを説かれましたのが『仏説観普賢経』であります。

このことにつきまして詳細に説くのであるならば、私どもはあまりにも恵まれたる体を持ちながら、恵んでくれている万象に対する感謝と礼節を忘れ、また、その思いが行き届いておらん。ということを説きましたのが、「私の身を知って、私を敬う私にならなくてはならん」ということばで、皆さんにお教えしているわけです。

皆さんが私の体と思っておられましても、常々に、それを説いておりますように、万物の支えなくして私のこの体というものは、組織されてはいないのであります。その万物も決して物質のみではない。目に見えざるコウといういわゆる恵みの動き、目に見えるところにおいては、万象ことごとくであります。石であれ土であれ金であれ、またこれを土台として生まれ合わせておる、草木ことごとくを和合摂取して、いうならば、お母さんの腹の中のスリ鉢でこねあげて、そして出来上がった。そしてこの自由というものを頂いておりながら、その万物で出来ている私に尊敬することを知らん。

ですから悟りとは、まず、私というものを知ることが一番大事なのです。ところが皆の考えは、いかにして喜ぼうかという、私だけを求めようとするから、その喜ぼうとする体は何によって出来きているかという、私自体の体を探求して、私の尊さを知る。その心が出来てまいりませんと。それが、悟りになるのです。

ということは、天地のお恵みの偉大なるものを知ることができる。それで悟りという字は、立心偏(忄)に吾と書きます。心を天地に立てなくてはいけない。心を天地に立てた私を知ることができる。それが悟りです。それを知るにはまず、身近な私の体を考えなければいけない。そうすると直ぐ、そこに到達することができる。決して悟りというものは難しいものではないのです。それを、昔から難しく考えておる。

いかに仏にしても「われ、無上菩提を得たり」無上菩提というのは、その悟りを得たときが無上菩提である。その相行う力ができたときが如来と言うことが出来る。ですから決して如来様でも難しいものではない。それを非常に難しく考えておる。お釈迦様は、「天上天下唯我独尊」と言われた。まったく、そのとおりであります。他人も尊いことは、私自身を見つめていれば尊いことに決まっているのだ。故にまた他も尊いのだ。私が尊いように他も尊いのだ…。

私の体と万象の支え ②

【 昭和37年1月31日祖神2年祭 ご恩師法話 普明会本部にて② 】


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…皆さんが妙法蓮華経を唱えておいて、「あ~ありがたい、ありがたい」とばかり言ってたんじゃ、ありがたいばかりじゃ大乗の義になるものじゃない。私、今、大乗の講義をしているんだ。「大乗の思いとは何ぞや」という講義をしている。「大乗とは万象と共に喜び合う恵みを知ることであり、喜び合わせんとする教えが大乗経であるのだ」ということが言えるのです。断言ができる。その喜びを知るには、大乗という精神は、しからば何であるかというと、「空無相を観ずべし」「恵みということを観ずべし」と言ってある。

皆さんが般若心経を読んでみても、ただ、「空の義」を思うことだけしか書いていない。「空即是色、色即是空」これが般若波羅密多である。知恵の彼岸に到達する所であるぞ。般若波羅密多というのは知恵の到達する所であるぞという意味なんだ。しからば、その知恵が到達する所といったって、そこまでじゃあ解決はつかないんだ。

その空なる動きを支配する、恵みというものが大切なのだ。恵みとは「喜び」という一事に帰する。ただ、恵みと言ったのではない。それが大事です。きょうは「大乗の極地」を、私はその心がけの極地をお話しをしている。ですから、その空無相なる法の中に、「法の根本が恵みであり、恵みとは即ち喜び」であり、それを根本として行動さえすればよい。それが、大乗経を奉持するもとです。であるから、他人の喜びを踏みにじったりする、ということは大乗にはならない。

在家宗教は非常に難しいのです。なぜかならば、重役さんやら、社長さんやら、課長さん、係長さんになると、もう招かれおいて、カフェーにでも行くと、座りながらいい人に酌をしてもらう。「こんなことがわかると、かかぁが、ブーブー言うだろうな」と思わなくてはならぬ。"お前さん"なんと引っ張られた日には困る。映画なんかに良くあるから、この頃、若い人にはあるかもしれないな。ここにはありそうな人はないから良いけれども、

ですから、女尊男卑とか、男尊女卑とかいうようなことはですね、結局、その恵みの使い方を知らないから、そういうことになってしまうのです。その心がけがなかなか難しい。この間を恵みを中心にして動きさえすればよい、「常に大乗の義を忘れず、昼夜に大乗の心を忘れず」ということになる。寝ても起きても。まさか寝ないで大乗、昼夜を分かたず、大乗の心を思わんというと六根清浄になれんと書いてある。

とても寝ても起きてもと言ったって、寝て眼をさましているわけにはいかない。眠ってさえも大乗の義を思わなければいけないとは、こういう難しいことはない。そうではない、常住座臥、常にその恵みを中心とした、というよりも、喜びを中心とした、「恵みを中心とした喜び」「喜び合わんとする恵み」これを常に忘れざる心であるならば、それが「大乗の思いを忘捨(もうしゃ)せざれ」ということになるわけです。そうなると立派な『六根清浄』が出来上がってくる。

「天地と共に同根なり、天地と同根なるが故に万物の霊と同体なり、万物の霊と同体なるが故に、また神にも通じるのだ」というあの『六根清浄祓い』というのは素晴らしく良くできております。素晴らしい。まったく、如来の言いえざるところ、悟りの境地における恵みの使い方の心得を、あの六根清浄祓いで知ることができる。

これは日本で生まれたのです。御嶽山で生まれたはずです。一心行者と言われるかどうか分かりませんけれども、そうした行者によって、あの六根清浄祓いというのは作られた文章です。実にすばらしい、われわれの生活上における、心得べき大乗のその在家宗教たるの義を説いたものである。ということを知ることができます。


万霊殿/正聖閣