自ら法華経中の常不軽と名乗った西田利蔵[1850~1918]は大正 7年の没年まで、横浜、東京を中心に、仏所護念法という先祖供養の教えを説き、また”教菩薩法説導者”の出現を予言する。いっぽう大正12年ころ、中山法華経寺系霊能者・若月チセ[1884~1971]の霊感により、東京の南千住の若月宅には、数多くの相談者が出入していた。現在の霊友会初代理事長・久保角太郎も、その家を出入りする者の一人で、西田の仏所護念法の教えも護持していた。初期の霊友会は、この久保により、若月法座後援会としての形で生まれていた。
大正14年 3月 4日、戸次貞雄は、久保角太郎、若月チセと互いに知り合い、戸次は久保により、西田利蔵の仏所護念法を知る。また戸次は、若月の霊感神通力により、「前身が仏である」などの神託を受ける。戸次は教菩薩法の覚得に取り組む。そして戸次と久保、戸次の妻オワリとの話し合いで、その後、久保は菩薩誓願としての霊感感銘の修行に入る。
大正14年 7月下旬、戸次貞雄は、罪障消払(ざいしょうしょうふつ)に心血を注いだ結果、ついに教菩薩法の一片[初期の教菩薩法]を覚得する。 8月 1日、戸次はその成果として、『仏の大慈大悲と運命』[昭和の法華経第一編]の著述を完成。同日、久保角太郎、菩薩誓願、霊感感銘の修行の成果として、仏界より「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)の記別(きべつ)を頂受する。久保は、戸次が覚得し説いた教菩薩法、それによって不備の補われた仏所護念の教えを分別し、流布し広説し、後に戸次によって説かれるべき完成された教えに先立ってその一部を説く[先唱する]、大導師として正式に立つ。戸次の奉勅教[戸次の説く仏勅を奉じる教え]としての霊友会が創立される。
※この霊友会は、仏所護念法のみの若月法座後援会を母体としたものではあるが、戸次貞雄の説く法華経の教菩薩法と仏所護念法の二法を掲げる。つまり戸次の説く二法の奉勅教となる。以後、戸次はさらに教菩薩法を開き示し、仏所護念の不備を補い、久保はその先唱者[著書の中では前衛司令官と表現される]として法を広めるという立場が昭和五年まで続く。
大正15年 7月31日、戸次オワリに、「みちのくの 美ちびき役の 志のぶ身の 道の助とこそ ゆうなれ」との神示が降り、昭和 2年、戸次貞雄は福島へ移る。
昭和 3年 8月18日、戸次は、『仏の大慈大悲と運命』(昭和の法華経第一編)を奉勅教霊友会名義で、著者普明堂主[戸次貞雄]、分別広説・流布者久保角太郎として印刷発行。 9月10日、戸次は、『昭和の法華経と常不軽菩薩』(昭和の法華経第二編)の著述を完成し、18日、奉勅教霊友会名義で、著者普明堂主、霊友会流布者久保角太郎として印刷発行。同年秋、戸次、『昭和の法華経とキリスト教』(昭和の法華経第三編)の著述を完成。同年暮れ、戸次は、『仏は滅し給はず』(昭和の法華経第四編)の著述を完成し、翌 4年 7月18日、妙皇国建設運動の一環として奉勅教霊友会名義で、艮の金神(うしとらのこんじん)即、普明堂主謹白、分別広説者虚空蔵・久保角太郎として印刷発行。
※『仏は滅し給はず』の奥付には、分別広説代表者久保角太郎、編集者梅津文彌の記載がある。
昭和 4年、戸次オワリの神示によって、組織の運営上、東京は霊友会として久保角太郎が、福島は明法会(みょうほうかい)として梅津文彌が、法を広めることになる。戸次貞雄は、教菩薩法、仏所護念の教えの完成のため、さらに修行を続ける。12月18日、明法会設立。
昭和 5年 2月 1日、明法会の初代会長梅津文彌、死去。 3月 3日、戸次貞雄は、『皇礼典法華妙皇道実証経』を発行し、教菩薩法は中期の段階に入る。それによって、仏所護念法もよりいっそう不備が補われる。戸次は、修行を続け、教菩薩法、仏所護念法の教えをさらに完成させるため、自らは会の運営にたずさわれず。そこで奉勅教霊友会さえも、仏所護念法の一法より生じたところの若月法座後援会とみなして解体し、明法会の会長に久保角太郎を推して会の統一をはかる。しかし実現せず。このことは霊友会が、戸次から離れて行動する契機となる。明法会の二代会長には、渡辺儀伝治が就任。
同年 7月 3日、霊友会の総会、発会式が行われる。戸次貞雄から離れた理事長久保角太郎、名誉会長小谷キミの、現在の霊友会の新体制が確立される。
詳しくは ⇒書籍「戸次貞雄と霊友会」をご覧下さい。