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それだけではすまないのです。妙法蓮華経になる道筋というものを、作らなければいかん。その道筋を作るには、何で作るかというと、先祖を礼拝する。というのが、自分の先祖ばかりではないのです。万象ことごとくを、自分の先祖として礼拝をする。これを『仏所護念』と言うわけなのです。ですから、活動するものも活動しない、いわゆる動物も非動物も共に、私どもの祖先として、これらをはっきりと理論づけられた姿をもって、お祭りをするということにならんというと、本当の仏所護念という法にはならないのです。
ですから、私が仏所護念を伝えた霊友会とか、立正佼成会なんていうものは、これは一つの道程であって、まだ、仏所護念としての形は、成り立っていないのです。それを成り立てるために今日まで私は苦心をして、そうしてはじめて昨年の富士に入ったので、それが成り立ってきたのであって、「仏所護念とは、かくのごときものである」という、その実証を今日いよいよ、このようになってきたわけです。【※注1】
ですから、仏所護念とあいまって、教菩薩法というものがあるのです。これは、おのずから、仏所護念とあいまって教菩薩法は出来るようになっているのです。
けれどもなかなか、そういうことというものは、お釈迦様も説いてはおられないことではあるし、ただ予言書として残されたものであるから、どういうものがどういう効果を現すかということは、実際に実証を待たなくては、これは知ることができない。ですから仮に、弘法様であれ親鸞様であれ、ああいう宗祖方がおられましても、ほとんどその仏教の中にあって、仏教の一部分を行われただけであって、大乗、大乗と言いながら、真実の大乗というものには手を触れずにこられたということは、お釈迦様自体が大乗に手を触れてこられなかったのです、実際は。
ですから、お釈迦様が亡くなられたとき、よくキリストの人たちが、この間死んだ○○という人も、死にがけになってお釈迦様なんか赤痢にかかって死んだのではないか、こういって悪口を言われますけれど、実際、この大乗の義に会いすれば、そういう病魔に犯されるということはないのですけれど、犯されたのではなくて、実にこれはみ霊の作用であって、そういう作用を受けながらでも、お釈迦様の時代においては、これを救う手だてというものはなかったのです。
それで、『無量義経』というそのお経の中に「智慧の日月、方便の時節」と、こう言われておられる。【※注2】ということは、この世の中が文化し、今日のように知識が発達して、すばらしくなるまでというものは、もう実際、その真実の仏の世界にはなっていないのです。
これはもう、ただの道行きであり道程であり、方便と言いますと、うそも方便などと言いますが、うその方便というものはないのです。方便とはこれは道程なので、ある一つの目的に対する、それを、このことばの上からも、間違いないようにしないといけない。ですから、大乗の実行。つまり大乗というと、一切万象と共に喜び合うところの実行。実行に移るその道程の今日までの年月であったと、それを「智恵の日月、方便の時節」と、こう言われた。
それで、「大乗の事業を扶蔬増長して」と言って、大乗の事業に至らしめんとする、こやしになっているのであり、それが終えるというと、実にその生活に、今言ったように大乗の事業を扶蔬増長して「衆をして、疾く阿耨多羅三藐三菩提を成じ」と言いますから、皆さん自体が、すでに我身如来という身を現じられることができるようになる。そして「常住の」常にこの生活の中に、常住の、まあこれは仏語で言えば、「快楽(けらく)」とこう言いますが、常住の快楽に「微妙真実に」としてある。
実際、今日のこの現実の文化を眺めるというと、まったく、常住の快楽である。そして、それのみではない、結局それだけでは足らんから、みんなが来てくれとは言わんけれど、そういう時が来たときは、おのずから「大導師」となり、「大良導師」となる人たちが現れてきて、そうして皆を導いて「盲いたる者には、眼目をなす」とか、「聾、劓、唖の者には、耳、鼻、舌をなし」もう、おしも治り、盲目も治るという時代を迎えることができるという、これは予言です。ですから、実際のその道程の教理は説かれてあったけれども、真実にわれわれが、生活の上に導くところの教えというものは、まだなかったのです。
私も、ですからこの法華教をやるというと、いろんな迫害を生じてきて、そうして、もう忍辱(にんにく)しなくてはならん。また、大勇を奮って、精進の衣を着て立ち上がらなければ倒されるということを、はっきりと、その中にも妙法蓮華経の中にも予言してあるわけです。
ですから現在までの妙法蓮華経は、一応の道程であって、その中から出発した新たなる予言の光、それが事実になって現れたときこそ、法華経の効力(くりき)というものは、本当は出てくるのです。ですから、それは一部の利益ということは、今日までもありうることであって、それはなぜあるかというと、たとえ道程であってもです、まあ仮に医者になろうと思えば、やはり小学校から、中学、高等学校、大学へと行く。では、医者になる上においては、そんなもの学ばんでもいいじゃないか、と言ったって、それは、医学という専門を修めるだけの知識というものを吸収する上において、どうでもこうでも、その学問の道程は必要である、不必要ではない。それと同じように、実際、今までの宗教というものは、そういう道程の学問なのです。ですから、これからが、その喜び合わんとする専門学たる法華経が、皆の中に降ってくるわけです。ですから、常不軽菩薩品というお経を読みますと、空中から、二千万億の法華経の偈を聞いてと、こう書いてある。そのくらいすばらしい。
とにかく、活動に法の動き、それを称して、法輪とこう言うのですけれども、そういうのが出てこなければ、神通力とかが与えられるものではない。ですから、いくら日蓮様が、曼陀羅を作られて、そうして、それを拝ましていても、それは道程における一つの、教科書というか、専門に至るところの仮のものであって、真実のものではないのです。
ですから、今後はぞくぞく、いろいろな世界の神々が出られ、また新たな如来たちの分が出られ、そしてその内容も必ず異なってくるようになるわけです。ですからもう今後、あるいは一年、二年と、今度の私の仏所護念の完成による、実証が現れてきたのならば、もう今の妙法蓮華経の中は、なくてもいいようになる。利益をくれる上において、まあ仮の道程の予言です。ですから、あれが効くものであるならば、何も日蓮様の曼陀羅なんか、必要ない。
なぜ必要ないかと申しますと、観音経を拝んだだけでもって、あれだけの利益があることが書いてある。それ以上に立派な利益のことばというものは、もう観音経以外にはないのです。確かにそれが、現れないところを見るというと、これは妙法蓮華経も、はなはだどうも怪しいものになってくる。まだ現れていないのです。
ですから、浅草に観音様がおられても、爆弾の来ることを知らせる坊さんもいない。結局その観音様を念じているならば、あのとおり、「雲雷鼓掣電し」ということになって、実に大火に焼かれても、それを逃れることができるように、すべてが書いてある。【※注3】ですから、せめて専門の観音の寺であるし、また、名高い観音様であるがゆえに、一人くらいの坊主には教えておいて、観音様が現れて、
「焼かれるぞ!もう、しかたがない、衆生が劫尽きたのだから、共に災厄を被って、焼かれるということは、これはやむをえん逃れるわけにはいかん。だがとにかく、焼かれるのは、いつのいつかであるから、速やかにその手を打てよ」
と言っておいて、どの坊さんにかでも、ちゃんと夢枕に立ったり、あるいは、教えたりされるということは、当然のことなのだ。それができないということは、妙法蓮華経の、観世音菩薩普門品も、やっぱり役に立っていなかったということを証明することができる。
ですから、現に観音様も浅草ばかりではない、京都に行けば清水の観世音とか、とにかく観音様は、至る所におられる。そして、また実に、高崎の観音であるとか、あるいは○○岬の大船の観音であるとか、四国辺りでも、あっちこっちに大きな観音様を何のために、どう思ってか知らんが、太平洋を向けておいて、そうしてお祭りしてあるようですが、それなら今度の戦争だって、観音様自体も、「これは、こうであるぞ」負けるのはしかたがないから、当然負けなくてはならん。「皆、こうしろよ!」というくらいの働きは、これはあってしかるべきなのに、しかるに、あっていない。
これを見てもですよ、日蓮の書いた曼陀羅が、生きて、動こう道理がない。ということを、はっきり、理論の上からも言うことができる。これは、私がここに仏所護念というものを完成したがゆえに、言えることばであって、それが、完成できないうちには、こういうことも私は言うわけにはいかなかった。私もまた、そうだった。観音妙智の力のお守りを得て、そうして本当に何ごともなく、すらすらと来そうなものだったけれど、やっぱり私もあらゆる迫害を受けて、そうしてほとんど一家を成すこともなく、押しつぶされながらここまで来て、やっと完成した。
こりゃあ、まあ容易ならんことであり、実際に観世音菩薩が、守っていない証拠である。はっきりと、あのとおり「世間の苦を救う」という、その文句があるが、それが現れなかったということは、事実、観音様も活躍ができておらんという証拠です。【※注4】いわんや、妙法蓮華経の、あの大事な観世音菩薩普門品が動かないのだから、ほかのまた大事なお経も、動こう道理がなかったのです。
けれども幸いにして、道筋をたとえ完成しないまでも、させてきたことが、いささかの守りを得て、そして今日まで来て、それを打ち破ることができて、ここに真実の法華経を皆さんに授けるときが来たわけです。ですから、これからが、皆さんが真の喜びを得られる時節が来る。
それにはやはり、その仏敵というものが、常に仏法を脅かそうという霊たちがおったわけです。これらが今後、まあここ一年ぐらいの間に、皆、片づいてしまうわけです。それで今度は、その、道を守る理論を知って、そうして自分たちから帰依するように、全部なってしまう。そうなると、妨げというものはない。結局、誰でもです、芯が通れば、もう危ういときには難の知らせを受けるという、自分たちが出来上がってくるようになります。その、最も力強い働きをされるのが、皆さんにお渡ししましたか、(あ、はい)あのご宝塔の曼陀羅、あの曼陀羅の働きになるわけです。これからが本物です。
ですから、地蔵様でも何でもですよ。観音様が動かないくらいだから、お地蔵様だって、働きが出来ないのが当然だが、ある程度働いているぞ、ということを示さんと、神も仏もないということになってしまうから、それじゃならんというところで、いささかおる、またあるぞというそのしるしを示すために、僅かながらも霊感を与えられたり、しるしを見せられたりして、来ていたわけです。
これからは、まさにそのみ霊様も心得て、あらゆる、われわれたちを妨げをしようとするものが克服されて、そして皆さんの信ずる、その心に相応したところの、利益を与えていかれるという時が来たのす。
※注1
戸次貞雄は、昭和34年6月8日から8月28日まで、教え完成のための最終段階の修行に入る。戸次は過去、昭和24年(40日間)、25年(20日間)、29年、30年の夏に、富士での修行を行っている。
※注2
無量義経徳行品第一に、
「智慧の日月・方便の時節、大乗の事業を扶蔬(ふそ)増長(ぞうちょう)して、衆をして疾(と)く阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽(けらく)、微妙(みみょう)真実に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。これもろもろの衆生の真善知識、これもろもろの衆生の大良福田、これもろもろの衆生の請(しょう)せざるの師、これもろもろの衆生の安穏の楽処(らくしょ)・救処(くしょ)・護処(ごしょ)・大依止処(だいえししょ)なり。処々に衆生のために大良導師・大導師となる。よく衆生の盲(めし)いたるがためにはしかも眼目(げんもく)をなし、聾(りょう)・劓(ぎ)・瘂(あ)の者には耳・鼻・舌をなし、諸根毀欠(しょこんきけつ)せるをばよく具足せしめ、顚狂(てんのう)荒乱(こうらん)なるには大正念(だいしょうねん)をなさしむ」
とある。
※注3
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五に、
「(観音の)名を聞き及び身を見 心に念じて空(むな)しく過ぎざれば よく諸有(しょう)の苦を滅す……雲(うん)雷(らい)鼓(く)掣電(せいでん)し 雹(あられ)を降らし大なる雨を澍(そそ)がんに 彼の観音の力を念ぜば 時に応じて消散することを得ん」
とある。
※注4
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五に、
「衆生困厄を被(こうむ)って 無量の苦身を逼(せ)めんに 観音妙知の力 よく世間の苦を救う」
とある。