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(申し上げまして)この人間そのままの姿の生活で、利益をもらうという保証をしている宗教はないのです。それではどうして病気が治ったり、災難を逃れたりすることが、時たまあるだろうかと言いますと、これは、まるっきり利益を見せなければ、神も仏もないということになるので、やむをえず、時には病気が治ったり、あるいは災難を逃れさせてもらったりしてあるのです。実際の宗教の教えというものは、この世でですな、つまり現世において、人間生活の中において、利益をもらうということはできない。これはもう絶対にできない、ということが言えるのです。
ですからつい先だっても、あるすばらしいお上人が言われるには、
「現世利益のために説いた宗教ではないのだ。みずからの魂を救って、そして安心した生活の中に明日を期待して、そうして、たとえ死んでも何の苦悩もない喜びを得るために、信仰というものはあるのだ。宗教というものはあるのだ」
ということを言われているとおり、実際にそのとおりであります。ところが今日の新興宗教といわれる宗教は、ことごとく現世利益を説きながら、皆さんを導いておる。これは、実にその、欺まんしたことばであって、実際にその利益があるという教えというものはないのです。
それは、どこから証明することができるかと申しますと、キリストは三十三の時にあの十字架に架かって亡くなられましたから、恐らく人間生活の味というものを知らずにこの世を去っておられるはずでります。が、そうして、そのキリストのことばは何であるかというと、
「みんなの汚れた血を私の清らかな血でもってあがなって、そうして天国に送るぞ」
こう言われております。
そうすると、現世で生まれた人たちに福を与え、あるいは幸いを与えるぞ、ということは言ってはおられません。自分の体をやりで突かれて、十字架に架かってすらも、なお、この世で皆を救うということばが残せないというところに、現世においての喜び合える法があるということは、もってのほかであります。そのことばのみではありません。
「もしお前たちが、俺と共に天国に来たろうとするならば、自分のごとく十字架を負え」
こう言われております。恐らく天国に入ることすらも、これは難しいのです。そうして、その利益の、なかなかに得がたいという事実を言い残されていっておる。
またその親ともなるべき、もうこれこそ、宗教のあらゆる宗教の根本を説かれたあのお釈迦様も、なるほど出家をして、修行されて、そうして完成ができたならば、まだまだ三十やっと越したか越さないくらいでありますから、わが家庭に帰って、かわいい子どももあればかわいい妻もあり、また両親も、いや両親じゃない親御もおられる。国王でもあるし、ぜひ帰って城を守ってくれと、再三の父王様のおことばにもかかわらず、絶対に帰らない。そうして出家したまま、もう妻のもとに帰ろうとも欲せず。のみならず、
「お前たちはそういう生活をしていると、まことに、まるで大火の中に焼かれている身のようなものであって、年中お前たちは苦しまなくてはならぬ。それではならん、われのごとく出家をして、そして、魂の喜びのあるところを求めよ。すばらしい喜びの座があるぞ」
ということを説かれまして、そうして、つい自分のせがれも、また自分の妻も、そうして、また兄弟である人さえも、これも異母弟と申しますから腹違いでありますが、そういう方々も一族を上げて出家をさせたのであります。阿難尊者のごときは、これはお釈迦様のいとこです。最もそばに仕えて、そして、いろいろお仕え役をされた。また、いろんなことから大富豪のせがれも……。(と今のお釈迦様のことばのほうが本当のようだ)
まるでこの世の中は泡ぶくのようなもので、今金持ちになったかと思うと、ふっと消えてもうどこに行ったか分からん。また新たなものが、またここに泡ぶくのように生じてくる。消えては生まれ、消えては生まれ、そうして、ついにもうはかない生活の中に暮らさなくてはならん。これじゃならんということを考えて、そうしてお釈迦様のところへ出家をした方もあります。
そうすると、その家内という人はもう国中での美人だったそうでありますけれども、これも、夫が出家したなら私も尼さんになります、というわけでもって尼さんになられた。そういう方々がたくさんあります。
それでありますから、お釈迦様が説かれた法でもって、私どもが現世で本当の喜びを得られようということはないのであります。その生活をされた形を眺めても、絶対に私どもが安心のできよう道理はないのであります。
でありますから、法華経という教えを残されまして、
「自分が死んで二千五百年後、この教えが世に出るぞ、しかもこの教えというものは、東方の浄妙国土の中からすでにあるのであって、その雑華経の中からその光が発してくるぞ」
こういうことを言われた(妙法蓮華経普賢菩薩勧発品、仏説観普賢菩薩行法経)。それで、これを一口に「東方の光」と言うのであります。
お釈迦様さえもそれだけの難行苦行をされ、自分が人間の欲を捨ててさえも、皆さんを本当にこの地上で喜ばせるという力強いことばを吐くことはできなかった。故に、二千五百年後のことを予言されて、そういう時が来るから、その時の喜びに、相会うように今から一心にお願いをして、そうして生まれ合わせるようにしなければいけないぞ。ということを言われているのであります。
このことばについても、またキリストも預言されておりまして、「神の国と神の義を求めよ」また、「東方の光を求めよ」ということを言われております。そうして、
「必ず天国が来るぞ、その天国が来るということは自分にも分からん。また天の使いたちも一人も知るものがない。それは本当に天地を創られた親神以外には、これは分かるものがないのだ」
と言って、預言されておるのであります(マタイ伝)。そのことを考えると、実際にこの世において、私どもが喜べる宗教というものがないということが、この二人の聖者のことばをもって知ることができる。
しかしながらまるっきりないのではない。ただいま申し上げましたように、お釈迦様が予言をし、キリスト様が預言をされているのでありますから、それが「東方の光」である。その光を間違えてあの大東亜の戦争中にも、東方の光といって、戦争すれば勝つぐらいの光ぐらいと考えている。それで、やたらにむちゃくちゃな戦争をやった。
ところがこれは翻りまして、大本教のおばあさんが、大正五年から七年ぐらい、亡くなられるまでの間に予言しておられますのには、
「世界の大戦があるぞ、日本は九分九厘まで負けるぞ、あとの一厘は神の仕組みによって勝つことができるぞ」
と言っておられますから、これからが、私どもが本当に、日本が戦争をして、すばらしい成果を上げたのだということを知る時節が来るのです。そういう予言をされておる。でありますから、いろんな予言の中から、日本の国というのは、まことに大切な国柄であるということを知ることができるのであります。
そういう考えから私は、この今までかつて、どなたもこれを説いたことのない、法華経の中のお経を取り出し、あるいはキリスト様のことばの中から取り出し、そうして「日本の神の国の神の義」とはどういうものであるかということを会得しまして、そうして、ようやくと昨年の八月、あの富士山上でもって万事の仕事が終えたのであります。しかしながら、その後において、いろいろと神々のお役目や、またその後引き続いて出られる神たちのそのお仕事ぶりを眺めて、そうして、おのおのその仕事ぶりによって皆さんを守っていただかねばならんので、その整理をすることで今しばらくの間、その期限があるわけであります。
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