出版物発行のおしらせ 戸次貞雄 講演会記録三

出版物おしらせ2

戸次貞雄 講演会記録三について
この冊子は、戸次貞雄が昭和26年7月8日、『文化大講演会』と題された浅草公会堂での講演会と、昭和27年8月10日に『日本民族道と宗教』と題された福島市新開座での両講演会記録を、当方にて編集し、注釈を入れ、平成28年1月31日に発行したものです。
(注)赤色の文章は原文から引用したものです。
文化大講演会
 『文化大講演会』では、文化とは喜びであり、
「私どもが生まれる前から、われわれに文化を与えて喜ばせようという考えの下に、この地球が造られたということを、この文化を通して知ることができる。そうすると、宇宙にみなぎる心は、喜ばせんがために動いているのだと、はっきりこれを言うことができるわけであります。これを私は、天津心と唱える」
「天津心をそのままわれわれに伝えられて、この心を行いさえすれば、いかに波風があろうとも最後まで栄えていくという、そのお示しをされている。それが、日本のご皇室の実体であらせられる」
と述べています。
さらに、キリストの説く墓場の死人をよみがえらす法が、わが国のみ霊鎮め祭りであり、その日本の国柄を説いたものが仏教であるとつなげています。そして、「キリストの十字架の大役」を解き明かし、
「キリストも、天国がきた時は墓場の死人はよみがえる、という予言をしているのであります。これが崇祖の実、まず先祖を救う、これが我々日本人の第一の仕事です」
としています。

 『日本民族道と宗教』では、国民に民族精神がなければ亡国の憂き目から立ち上がるのは難しいとされ、
「日本の思想を知らざる日本人がいるがゆえに、日本民族道というものを高らかに叫ぶのであります」
「日本民族道とは何ぞや。言うまでもなく先祖を礼拝し、先祖を尊ぶことが日本民族道の骨子であります」
と、さらに、
「この先祖礼拝こそ、天地を造られた親神に至る。祖神に至るがゆえに、その天地を造られた祖神から万物が造られたのであるから、その生命は万物に通じますから、実に先祖礼拝こそは大宇宙愛の宗教であります」
と述べています。
そして、
「その無言の教えを垂れさせ賜ったのが、神武天皇であり、それをお指図あそばしたのが、わが伊勢の皇大神宮、天照大神だったのであります」
と述べられ、最後に、
「正に皇室の駆使せられておる法こそ、人類無窮の法と、いわゆる光を運ぶところの一家に喜びを与える、一家愛を示されているところの尊い神様であるということが必要であります。これをもって、いわゆる天皇道と称し、しかも天皇と共に、先祖から今日までわれわれもやってきたのであるから、正にこれが日本民族道であります」
と結んでいます。

出版物おしらせ2-2

今後、戸次貞雄講演会記録などの冊子が順次出版される予定です。
詳細は各道場にて、お問い合わせください。

 

神様からの贈り物~冬のあまつごころ~紙芝居動画

 

【近況報告】全国的に有名なブランド魚、富山県氷見の「ひみ寒ぶり」ですが、今シーズン(平成27年11月~平成28年1月)の水揚げは不漁によりひみ寒ぶり宣言はありませんでした。(×_×)


【天津心(あまつごころ)】について、戸次貞雄のご法話の一部を掲載いたします。ご参考下さい。

戸次貞雄講演会録(三) 『文化大講演会』より抜粋

まずその天津心から解剖してみます。文化はひと言にして言えば、これは喜びです。文化はもちろん、われわれの知恵と力によって発明発見し、施設を整備したわけであります。またその知恵はどこからもらったか、ということを考えますと、これはやはり宇宙からもらった。親がよこしたのでもなければ、自分で持ってきたのでもない。宇宙が備えさせてくれたという以外には、答えはないのであります。 (中略) また、その施設を造る知恵を持つようになってから、文化の材料がこの地球上に生まれたのではないのであります。われわれがこの地球上に生まれる前に、文化を成す材料は、全て備えられていた。私どもがまだ、どこにいるかわからなかった人類という影も形もない時分に、すでに文化する材料というものは、この地球に備えられていた。そうしますと、私どもが生まれる前から、われわれに文化を与えて喜ばせようという考えの下に、この地球が造られたということを、この文化を通して知ることができる。そうすると、宇宙にみなぎる心は、喜ばせんがために動いているのだと、はっきりこれを言うことができるわけであります。 これを私は、「天津心」と唱える、この地球もまた、宇宙に法則があってそうして出来たのだ。喜ばしめんがためだ。だからその喜ばせるという事実は、地球が出来る以前からみなぎっていたということを、なお深く言うことができるわけであります。

戸次貞雄講演会録(三) 『日本民族道と宗教』より抜粋

この地球が出来た時に、今日の文化を成す物質も出来ていたのであります。私どもの手で作って、私どもが科学して、今日の文化が創造されたのではないのであります。私どもがこの地上に生れる前からすでに、科学する法則もあれば、また科学するところのその物質もりっぱに備えてあった。人間がまだこの地上に生息しない時から、その準備はこの地上にされておるということを考えることができる。そうしますと、この地上を造る時にはすでに、われわれを喜ばしめんとする心が、この地の中に入っていたということを申し上げることができます。 これを私は称しまして、「天津心」と唱えているのであります。そんな所に心があるか、とこう申される方もありますが、宇宙の中に心がないのであったならば、われわれが心を持って生まれてくる道理はないのであります。 自分が見ることができないから、それはないのだという人では、知ることはできません。自分の心をつかむことができますか、自分の魂を見ることができますか。またニンジンやゴボウなどを食ってこね合わしたその一部から、われわれがこうして生い立った。その変化を、みずから眺めながら生い立つことができたのか。 私どもは、実に見えざる力があってこそ、生活ができるのであります。その見えざる力、また見えざる心、それは何であるかということを申し上げますと、今説明しましたように、正に喜ばしめんがために動いているという、この空中におけるところの恵みを、りっぱに今日の文化を通して釈明することができるのであります。 そうしますと、宇宙の心に沿う、喜ばしめんがために尽くすところのその恵みに沿うならば、必ず幸福を得るということが断言できる。

普明会ホームページ作成チーム
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