この紙芝居の動画は将来を担う子供たちに食するという日々の生活を通じて、天地のお恵みを感じてもらい、万物万象、たくさんの生命や人々の支えによって生かされていることを考えていただければと思い、制作されたものです。教義的に説明するには不完全なものですが、少しでも日々の生活のありがたさや信仰することに興味をもってもらえれば幸いです。以下の文章をご参考ください。
平成24年7月8日 当教団発行 『戸次貞雄著述 妙皇道報 』 より抜粋
【運を良くするお話】その6 畜類や虫類の供養
たびたびこれまで、お話いたしておりますように、仏様の眼から見ますと、畜生も虫類も、皆わが子だと申されています。それは決して口先や方便ではありません。
畜類でも鳥類でも虫類でも、ほとんどが人間に縁があるように仕向けられています。中にはずいぶん縁遠いのもありますが、それからそれへと、縁がつながれております。殺したり、殺されたり、食われたり、食ったり。
どうしてこんな悪縁でつながっているかと申しますと、人間であればお互いに救い合う、その知恵を持たせてありますから、自分の考えで、人のためや村のためというような、善い行いをして善根を植え、仏様や神様のご加護を受けて、安らかになれるようになっていますが、ほかの動物にはそんな知恵を持たせてありません。それで、自分から進んで善根を植えることはありませぬ。したがって、よい所に生まれることもならずに、いつまでもいつまでも、もとの姿に生まれておらねばなりません。
自分が重ねてきた罪でそうなったのですから、それでもよいのでしょうが、もともと人間をはじめ、わがままで固まっていますから、悪いことをするのが多くて、ついには人間に生まれてくる善根者がなくなって、それこそこの世は虫けらの世界になりましょう。それではせっかく、この世をみんなで楽しもうとお計らいくださった、仏のご慈悲も神様のお仕組みも、むだになります。
悪事はそれを悪報となしても、その悪の報いから一刻も早くのがれさせようという、そのおぼし召しから、殺したり殺されたり、食ったり食われたりするようにして、縁を作ってあります。食われれば食ったものの腹肥やしの善根となり、殺されれば自分の罪を殺したものが持っていく。
例えばハエになり下がるには、それこそ犯した罪は量り難い。食う殺すなどを日常行事として畜類魚類等に生まれ、転々して、ハエと生まれる。その転々のうちにどれほど食う、食われる、殺す、殺されるして、悪縁がそれからそれへとつながっているか量り知れぬ。
そのハエがうるさい、ポン、人間が殺す。と、そのハエに関連した悪縁とともに殺した人間が背負う。その人が信仰家であれば、その力でだんだんとハエもよい所に生まれていく。またハエの縁作りしたものたちも、次第に救われるようになる。こうしてお互いが救い合って、お互いに苦しみから抜けるように、仕組んであります。
人間と生まれたら、どうしてもそれらを助けねば、自分たちの安心はできぬようになっています。そのために他動物に比べて、比べものにならぬ知恵と特権を持たせてあるのです。こんな訳合いのもとに世の中を作ってあるのですから、『俺は正直だ、何一つ罪作りのまねはせぬ。神様におわびするような悪いことは、ねぇや』などと言っても、お前さんばかしの世の中ではないから、そんなことばは通用しない。国王であろうと、その受くべき因縁の仕組みは受けねばならぬ。どんな者でも生まれ出たかぎり、きっと悪因縁の罪を背負うようにできておる。
その悪縁を良縁に移すのが目的であるから、その仕組みがされているのです。毒薬変じて薬となる、それのごとく悪縁を良縁となす方法、それが仏法の肝心です。『哀れなものだ。仏様におすがりして、よい所に生まれろよ』その心で、またそれらに結び付かねばならぬ罪の身を、心からわびねばならぬ。
その真心のしるしが朝夕の読経であり、念願のしるしが戒名となるのです。と、先にも申しましたように、どんな縁が作られているか、それらは凡夫ではわからぬ。それは、わからぬなりに供養をさせてくださる。総戒名で我慢してもらう。その総戒名は、だいたい人間以外を四つに分けて作ります・・・。